随想
らくだ 酢屋 潔

 「らくだ」という落語を噺家が演ずる時大抵、えー駱駝という動物はと駱駝の大きな図体とか、のそのそした動作とかを語りはじめる。そして何時頃日本に入って来たかも付け加える。
 しかし、なかには桂文珍のようにまくらで師匠が飼っているペットのオームからはじめる人もいる。そして自分が飼っている小五郎という名の猫から生命を助けられた話となり、感謝状を贈る為に小五郎から木戸孝允と改名した、と笑わせる。若い人はわからないかも知れないが明治の元勲桂小五郎が木戸孝允と改名したことは有名な話しだった。そのあと駱駝を飼っている人の話となり、その駱駝が運搬途中高速道路で逃げ、車と衝突したが生命に別状なくこぶが一つ増えただけだと又笑わせる。    
 今我々はひとこぶとふたこぶの違いはわからないにしても駱駝については子供でも知っている。割に親しまれているのは童謡に出てきたりシルクロードの幻想的シーンをテレビで度々見るからだろう。
 さて落語の「らくだ」は図体が大きくてのそのそしていることから「らくだの卯之助」とあだなの付いた男がふぐを食べて死んだことからはじまる。
 この「らくだ」とあだなされている男、乱暴者で長屋中からおそれられ嫌われていた。そこへろくでなしの兄弟分、脳天の熊五郎が訪ねて来る。らくだが死んでいるのを見て葬式を出さなければと思っているところに屑屋が通りかかる。らくだにいつもひどい目にあっている屑屋としてはさけて通るべきところうっかり声を出してつかまってしまう。この熊が屑屋を使って葬式の準備をするところから物語りは佳境に入る。
 先ず屑屋は長屋の月番のところに香典を集めに行かされる。月番は熊の形相を聞いておそろしくなり香典を集めてやることになる。
 次は大家のところへ酒、肴を無心にゆくがことわられてしまう。さらばと熊は屑屋に死体をかつがせ大家の家に乗り込みかんかん踊りをさせたので流石の大家も音をあげ要求をのむ。
 あとは八百屋で早桶がわりに漬物樽をかんかん踊りをちらつかせてせしめる。
 これで一応準備が出来たので弔い酒となる。はじめ遠慮していた屑屋も根が好きなだけに飲み進むにつれ気が大きくなる。身の上話を語っているうち熊と兄弟分になる話となり頭をそったり早桶をかついで火屋(火葬場)へ行ったりするが途中で死体を落してしまう。気付いて探しに戻るが間違って酔っぱらいの願人坊主を拾う。もう少しで火を付けられるところをやっと起き上り「ここはどこだ」「ひやだ」「ひやでもよいからもう一杯」で落ちとなる。
 この噺、ぼんやり聞いていても結構面白いがしかしより味わい深く聞くには時代、風俗、風習など知っていたほうがよい。
 先ず駱駝という動物、いつ頃日本に入って来たものだろうか。文献によれば江戸時代1821(文政4年)オランダ船が運んできて2年後、長崎商人に売られ見せ物として大坂や江戸で群衆の目にふれた。当時も大変な評判だったがその後10年以上にわたって全国を巡業したので一般大衆にも広く知られるところとなった。つまりこういう社会現象があればこそ「らくだ」という落語も生じたものだろう。
 もともとは「らくだの葬礼」という上方落語であったが三代目小さんが四代目桂文吾から口伝で譲り受けたものとされている。従って今でも話の大筋は同じでも部分的には江戸風に変えている。
 尚長崎に入って来た駱駝はひとこぶらくだらしく文政期に画かれた錦絵が残っている。
 文政期ではもう一つ「かんかんのう」の流行が駱駝の見世物に重なってくる。作品として見た場合の落語「らくだ」はいくつかの魅力を持っているが、その見せ場の一つ、死人に踊らす「かんかんのう」は最もショッキングな場面とされている。


そして、この「かんかんのう」とは駱駝が見世物で評判になる一寸前文政期に流行した見世物で大道風俗であった。
 これは元来民清楽という中国の俗曲「九連環」から派生した和製の俗謡で見世物としては「かんかんのう…」という歌に合せて一団で踊ったもので、それを看看踊り、唐人踊りなどといった。今残っている図版を見ると丁度長崎の蛇踊りに出て来る唐人風の人達が鳴物にあわせて手足を振って踊っている。この踊りを芸人一座が大坂、名古屋、江戸で興業し大評判となった。それをきっかけに場所を変えて2年近くも看看の興業を継続したので各種の庶民文化に浸透、定着し文芸全般に影響を及ぼした。
 このように駱駝の見世物と看看踊りは当時を代表する社会現象であったが、その時代とは如何なる時代であったろうか。歴史的に見れば俗に文化、文政時代といわれ庶民文化の爛熟期だった。芸術では小説の式亭三馬、滝沢馬琴、俳諧では小林一茶、絵画では北斎、司馬江漢などがあらわれた。一方風俗は頽廃し綱紀は弛んだ。
 従って落語「らくだ」はこのような時代背景の中で元になる噺が出来あがり、ついで「駱駝」と「かんかんのう」が加わって骨格が骨太になったのではないか。その後いくつかの小話しが追加され今日の落語になったと推測される。
 以下噺の筋に従って気付いた点に触れたいと思うが元ねたは関西ということからそれによって進めることにする。
 長屋中から、あの男さえいなければと、総スカンをくっている男、何時の時代にも居るものだ、と語りが入り兄弟分の登場となり、これに通りかかった屑屋がつかまる。長屋の月番、大家の存在は封建時代の定着を表す。そして言うことを聞かない大家に対し死人に看看踊りをさせるグロテスクは時代が生み出したものである。願人坊主の存在も同様で文化が爛熟すれば起る現象であろう。その証拠の一つが卯之助の死を知らされた月番も大家もあっけらかんに「ああ、よかった」と喜ぶところである。どんな悪人でも死ねば罪もむくいもないといったものなのに喜ぶのは時代風潮であろう。又頭を剃って湯灌をするところは何んなならず者にも仏教思想が浸透していたことを示すものである。
 さて先日笑福亭松之助の「らくだ」をビデオで見たが死人のかんかん踊りは迫真の演技だった。白眼をむいて手を上下左右にふる様は、なる程これがかんかん踊りかと納得する程のものだった。このかんかん踊りについては私も忘れ難い体験がある。といっても夢での事だが死人を背負わされて往生したことがあった。その時のおそろしかったこと、重かった事。しかし冷たくはなかった。
 ところでこの落語のクライマックスは何んといってもおとなしい屑屋が酒を呑んで人が変ったように荒々しくなるその変化で噺家は精魂をかたむけて演ずる。従って最近はさげまで行かないでここで打ち切ってしまうことが多い。更に貴重なのはこの落語に今は死語となっている「どぶさる」「ごねる」「かた」が出ていることである。どぶさるはど臥さるで寝ること、ごねるは御涅槃を活用させたもので死ぬこと、かたとは形で現金のことである。
 以上述べてきたことに思いをいたすと「らくだ」は一層味わい深く聞くことが出来る。
 ここ4、5年で日本社会はうるおいのない索莫たるものになってしまった。
 このような世の中に暮す人々にいこいを与え安らぎをもたらすのは落語であり日本固有の文化としていつまでも残しておきたいものである。